2019年01月21日

1時間、祈る


「シモン。眠っているのか。
    一時間でも目をさましていることができなかったのか。」
    
マルコの福音書1437



イエスは十字架にかけられる前の日、
ゲツセマネという所に来て、
祈られました。

その時に弟子たちに
「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」と言われ、
ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれました。

イエスは深く恐れもだえ始め、彼らに言われたのです。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
 ここを離れないで、目をさましていなさい。」
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、
もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
またこう言われました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
 どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
 しかし、わたしの願うことではなく、
 あなたのみこころのままを、なさってください。」
それから、イエスが戻って来ると、弟子たちが眠っていたのです。

ペテロに
「シモン。眠っているのか。
 一時間でも目をさましていることができなかったのか。
 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。
 心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

イエス・キリストが十字架の上で、
あなたとわたしへの愛を全うすることができたのは、
この時、祈られたからです。

弟子たちが、
その時逃げ出したのは、
このとき眠っていたからです。

1時間祈る」
イエスが言われたことの言葉は、とても大切です。

1時間祈ることを、
イエスの恵みの中で身につけましょう。
教会と聖霊の助けを借りて・・・
posted by 主のしもべたち at 16:49| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

十字架を引き受けたイエス・キリスト


立ちなさい。さあ、行くのです。

見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。

        マルコの福音書1442


イエスが、ゲッセマネで祈られたとき、弟子たちは眠っていました。
イエスが三度目に祈り終えて弟子たちのところに来られたとき、
彼らに「まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。
見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」と言われました。

イエスは、このあと十字架にまっすぐ向かって行かれました。
騒ぐことも取り乱すこともなく、
十字架を引き受け、全うされたのです。
このゲッセマネで、祈り切られたからでした。

一方、弟子たちは、
イエスが捕らえられ十字架にかけられる時、
みんな逃げてしまいました。
それは、この時、彼らが祈れなかったからです。

イエスが恐れもだえて祈られている時、
弟子たちは眠っていたのです。

ただ、この弟子たちが、
ペンテコステの時には祈っていました。
そして聖霊が激しく臨み、彼らは変えられます。

私たちも聖霊により頼み、
目を覚まして祈りましょう。
そのとき、聖霊が私たちに臨み、
私たちも、
主イエスのように、十字架を引き受けて進んでいけるのです。
posted by 主のしもべたち at 16:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

「旅」
 信者たちは、この流罪を「旅」と言いました。一村総流罪というこの旅は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありました。しかし、旅に出る人々の心は明るかったのです。信仰を守り神さまへの忠実を貫いて、殉教への旅に出ることは、彼らに残されたただひとつの道だったからです。
posted by 主のしもべたち at 07:00| Comment(0) | パソコン教室 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月08日

キリストとともに自由の中を歩む


真理はあなた方を自由にします。

     ヨハネの福音書831


聖書は、神のことばです。
そして御言葉は真理です。
この真理である聖書の御言葉にふれ続ける時、
人は本当の意味で自由になります。

多くの人は、人の言葉や目の前の状況に
心を動揺させたり、振り回されてしまいます。

しかし、真理である神の言葉は、あなたを自由にしてくれます。

またイエス・キリストは言われました。
「わたしは道であり真理である」と。

イエス・キリストを信じ、
この方と共に歩み始めると、
私たちは自由にされていきます。

2019年、
イエス・キリスト共に、自由の中を歩みましょう。
聖書の御言葉にふれ続け、
何ものにもとらわれることなく、自由の中を歩みましょう。

posted by 主のしもべたち at 08:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

主は選び、呼んでくださる。「主がお入用なのです」と。


「主がお入用なのです。」

   マルコの福音書113


イエス・キリストが
エルサレムに、王の王として入城された時、
人々は「ホザナ、ホザナ」と
大歓声を上げて歓迎しました。
その時、乗って来られたのが
「ロバの子」でした。

まだ誰も乗せたことの無いロバの子を、
わざわざ2人の弟子を使いに出して、
連れて来させたのです。

ロバの持ち主に
「主がお入用なのです。」
そう言って、
主イエスは、
このロバの子を、呼び出され選ばれました。

イエス・キリストは、あなたにも語られます。
「主がお入用なのです」と。

どんなに不十分で、
経験不足で
何もできないと思っていても、
主が呼ばれたら、その招きに答えましょう。

あなたを主が必要とされ、呼んでくださったのです。

主がお入用なのですから。
posted by 主のしもべたち at 08:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛する一人息子を遣わしてくださった父なる神


それは愛する息子であった。

彼は、

『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、

最後にその息子を遣わした。

                                 マルコの福音書126


イエスは、ある時たとえを話されました。
「ある人がぶどう園を造って、農夫たちに貸して、旅に出かけました。
季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、
しもべを農夫たちのところへ遣わしますが、
彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、
何も持たせないで送り帰します。
その後にも、多くのしもべを遣わしますが、
彼らは袋だたきにしたり、殺したりしたのです。

その人は、
『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、
最後にその息子を遣わします。
すると、その農夫たちは
『あれはあと取りだ。
   さあ、あれを殺そうではないか。
  そうすれば、財産はこちらのものだ。』
そう言って、彼をつかまえて殺してしまい、
ぶどう園の外に投げ捨てるのです。

これはイエス・キリストご自身のことを言われたのでした。
父なる神様は、預言者を遣わしてもユダヤ人が悔い改めないので、
最後に愛する一人息子であるイエス・キリストを遣わしたのに、
ユダヤ人は、そして人類は彼を拒み、十字架で殺してしまうのです。

しかし、その十字架が私たち一人一人の救いとなりました。
まさに神の愛の大きさと偉大さです。

今、あなたも私も
父なる神様の一人息子のイエス・キリストを信じて
心に迎えることができます。

その時、永遠の命が与えられ、新しい人生が始まります。

posted by 主のしもべたち at 08:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イエス・キリストが礎の石


『家を建てる者たちの見捨てた石、

 それが礎の石となった。

 これは主のなさったことだ。

 私たちの目には、不思議なことである。』

          マルコの福音書1210-11


中東の地域で家を建てる時は、石で家を建てます。
日本では木ですね。
礎の石というのは、その土台となる石、礎石となる石のことです。
家を建てる人が、
これは役に立たない、いらない、と言って捨てた石が、
なくてはならない礎の石になったという意味です。


この礎の石は、イエス・キリストのことを指しています。

人々がイエス・キリストなんかいらないと言って
十字架にかけて殺しましたが、
そのイエス・キリストが、
その十字架が、人々にとって、なくてはならない救いとなったのです。
posted by 主のしもべたち at 08:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする